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豊かな実り、干拓の町 横島町

正面の横たわる小高い山が「横島山」。
加藤清正が干拓事業を始める前は、横島山は海に浮かぶ島でした。
広がる田んぼはその昔は海だったのです


「ここはむかし、海だった」 今も残る石積みの堤防跡

平成22年、「旧玉名干拓施設」として国の重要文化財に指定。明治26年ごろの構築とされる明丑開(めいちゅうびらき)潮受堤防。上部の波返し部分はコンクリート造り.。明治、大正、昭和にかけて、築造と改修が繰り返されてきました
 
江戸時代の干拓施設九番開(びらき)堤防


石積みの末広開(すえひろびらき)二枚戸樋門(大浜町)など7カ所が国の重要文化財に指定されています
 
横島町文化財保存顕彰会会長の大谷壽さん。横島小学校校長在任中に、改めて横島の歴史などを学びたいと平成7年に同会に入会。校長退職後、横島町教育長などを経て町の文化保存の活動を行っています


金峰山の中腹、通称・金峰オレンジ街道から見た横島方面の景色。平野部分が横島町。平野部の右手の奥の小さな森が横島山
 
42年に完成した潮止め堤防から望む干潟の有明海


 上熊本(熊本市)から本妙寺を抜け、通称・金峰オレンジ街道(県道1号)を玉名市天水町方面へと上ります。しばらくすると、それまで木々で覆われた頭上に真っ青な空が浮かび、一気に視界が開けます。
 周囲の山の斜面はミカン畑に覆われ、すでに青く小さな実をいっぱいつけています。有明海に目を向けると、対岸の島原半島に普賢岳を見ることができます。その開放的な風景に引き込まれ思わず車を停めて、しばらくこの眺望を楽しんでみました。
 すると、田んぼの中に、こんもりと茂る小さな山が目に止まりました。横島山です。約400年前に干拓が始まる以前は、横島と呼ばれ、海に浮かんでいた島です。
 横島町の名前の由来は、この小さな山にあったのです。
 「横島の干拓事業は、加藤清正が肥後入国後、島の先に広がる干潟を見て、ここを農地にしようと始めたのが起こりです」と話すのは、横島町文化財保存顕彰会会長の大谷壽(ひさし)さん(73)。
 「加藤清正の時代から昭和42年に潮止め工事が完了するまで、実に46カ所以上の干拓地が開かれたのです」
 横島の周辺から始まった干拓は、堤防を築きながら沖へ沖へと田畑を広げていったのでした。 
 「今立っとるこの道も江戸時代の堤防ですたい。こん道ば挟んで、江戸と明治の土地のありようがわかっとです」と大谷さんが示したのはかつての堤防跡でした。
 土手道だとばかり思っていたその道を横から見ると、確かに石積みが残っています。ここが、江戸時代と明治時代を分ける境界線だと思うと、感慨深いものがあります。
 明治時代に築かれた堤防や樋門は、約7mほどの高さの石積みが5.2キロも続いています。これほど大規模な形で残る「旧玉名干拓施設」は文化的にも土木技術的にも大変貴重なものだと、平成22年に国の重要文化財に指定されました。
 古く長い堤防が途切れた先には、陽光を受けてキラキラと光る干潟の海が広がっていました。ここが海辺の町なのだと思える場所です。


問い合わせ
■横島町文化財保存顕彰会
TEL.0968(84)2122(横島町公民館)
 
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※各情報は掲載時のものです。料金や内容が変わっている場合もあります。
  あれんじ気まま旅
Vol.82(2013.8.17)掲載
トマトやイチゴの産地として全国的にも有名な玉名市横島町。この豊かな土地の始まりは、加藤清正時代からの干拓事業にさかのぼります。400年の歳月をかけて誕生した横島町。築いてきたのは、代々受け継がれてきたフロンティア精神にありました。

文=北園佳代 写真=森賢一(グラフ) 
表紙=横島町の干拓地の先に広がる有明海の干潟



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