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文永11年(1274)に北条時定が国土安泰を祈願して建立したと伝えられる満願寺の楼門
一陣の清風を求めて 鎌倉の面影しのぶ旅へ 南小国

杉の巨木群が見守ってきた 北条時定、定宗、随時が眠る墓

巨大な杉に見守られている北条三氏の墓
 
苔むした北条氏の墓。数百年の月日が経っています


満願寺の楼門から見る本堂
 
九州では最古の庭園といわれる満願寺庭園。心という字の形に掘られた池は室町時代初期に造られました
 
満願寺川にある湯舟。野菜を洗ったり足湯にしたりと、地区の人たちの生活の一部になっています


 雨に洗われた南小国・満願寺の空気は澄み切っていました。しっとりと静かな景色の中で、水かさの増した満願寺川の瀬音がひときわ耳に響きます。
 川沿いには温泉が湧き、「川湯」と呼ばれる共同風呂は地区の人の暮らしに欠かせない施設です。川の中に作られた湯舟で野菜を洗う人もいて、温泉が日々の営みと深く関わっていることがうらやましく思えます。
 満願寺の楼門をくぐろうとして、ふと、ここが、鎌倉(神奈川県)の雰囲気に似ていることに気づきます。ぐるりと山に囲まれた温泉地にあって、なぜ、この場所に鎌倉的空気感を感じてしまうのかは理由があるのです。
 時代をさかのぼること、792年前。小国郷は承久3(1221)年に起きた承久の乱により、この地を支配していた公家の葉室氏から北条氏の所領となりました。
 当時、すでに武家政権を確立していた鎌倉幕府でしたが、都の公家政権との二頭政治が続いており、この乱により実権を確実なものとしたのでした。そして、小国郷には執権・時頼の弟である北条時定が着任しました。
 しかしなぜ、こんな山奥に執権の弟という地位のある時定や弟の定宗、その息子の随時が下向したのでしょうか…。
 それは、ここ満願寺が九州のほぼ中央にあって、モンゴル軍の九州襲来に備えるための大切な場所と考えられたからです。
 事実、文永11(1274)年にモンゴル軍が襲来すると、敵国降伏祈願のため、時定は立護山満願寺を建立しました。
 おそらく時定は、故郷・鎌倉を思い、この地に似たような町並みをつくらせたのではないでしょうか。界わいのあちらこちらには石仏があり、鎌倉を思わせるような光景に出合います。
 本堂を出て少し歩くと、息を飲むような大きい杉の巨木がそびえています。太陽の日を全てさえぎってしまったような大木が囲むその中央には、時定、定宗、随時の三人の墓があります。精霊が宿っているかのような巨木は、もう何百年も墓を見守っているのです。


>> 2 みんなで守る伝統の神楽 他地区から舞い手の参加も
※各情報は掲載時のものです。料金や内容が変わっている場合もあります。
  あれんじ気まま旅
Vol.80(2013.7.20)掲載
夏本番です。天気はぐずつき気味ですが、時折の晴れ間に涼しさを求めて、阿蘇の南小国へと出かけてみました。今回は、鎌倉時代の史跡や面影が残る、満願寺界わいを中心に訪ねてみました。そこには昔ながらの伝統を守りながらも、新しい取り組みも始まっていました。

文=福永和子  写真=森賢一(グラフ) 
表紙=立岩水源に向かう途中にある杉の木立



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