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夏の日差しのもとで 紡がれる豊かな大地の物語 合志市


農村青年を育てた 学び舎の歴史を語るカタルパの木

「初夏は蘭のような白い花が見事ですよ」とカタルパの木を背にした工藤左一の孫の恭一さん(76)。幼少時の記憶には、左一が馬で視察に回る姿が残っているそうです
 
家計が苦しい生徒からは金銭的な謝礼を受けなかったこともあるという「合志義塾」。入り口を示す石碑から画面奥の校舎へ続くゆるやかな坂道を、希望に胸を膨らませた生徒たちが通いました

大正10年(1921)完成の時の姿が残る「合志義塾」の記念館。現在は畜舎となっています(個人宅のため断りなく立ち入りはできません)


昭和6年に昭和天皇の勅使を迎えるなど、全国の教育界に名を馳せた合志義塾。熊本市長を通算8年余り務めた石坂繁さん(故人)も義塾出身です。※写真は昭和6年ごろの義塾正門と記念館
 
「合志義塾」草創期の生徒たちと、工藤左一(最後列左から3人目)、平田一十(同4人目)
 
OBの岡村良昭さん。「最晩年の孔子を思わせる左一先生の厳かな風貌に接した思い出は、私にとって宝です」


 初夏には幼い芽吹きだった若葉が夏本番と共に勢いを増し、その緑を力強く深めていく季節。合志市北部の黒松地区では、ビロードのように田畑を覆う緑の中に、竹林に囲まれた家々が浮島のように点在し、なんともゆるやかな時間が漂っています。
 そんなのどかな田園風景の中に、かつて、向学心に燃える青年たちを大切に守り育てた学び舎(や)がありました。それが、「合志義塾」です。国の根幹をなす農村の子弟が中等以上の教育を受ける機会が少ないことを憂えて、土地の有力者であり教師であった工藤左一(さいち)とその従兄弟、平田一十(いちじゅう)が私財を投じて開きました。明治25年(1892)の開校以来昭和25年の閉校まで、6590人もの卒業生を世に送り出しています。
 設けた制度の中でもユニークだったのは、英国の名門パブリックスクールに倣ったといわれる自治的な”学団(がくだん)“。在校生は”勇敢“”勤倹“など異なるモットーを掲げた5学団に分かれ、上・下級生が一丸となり各団間で切磋琢磨しました。
 それはまさに、各寮(団)が競う現実の名門校制をなぞったであろうイギリスの児童文学「ハリー・ポッター」の世界のようです。各団が”自由と規律“のもとに高めあう学生生活は、若いエネルギーに満ちた日々だったことでしょう。明治期の熊本にあってこのような海外レベルの自治制を敷いた、工藤・平田2人の創始者の開明性を思わずにはいられません。
 「生徒の誤ちには激せずに順々と諭す、戦前にあっては稀有な”自由人“教育でした」と回想するのは、昭和16年に入学した岡村良昭さん(85)。
 「どの先生も、生涯一教師として物質的な恵みは薄いなか、”幼い魂に命を吹き込む“というかけがえのない喜びだけを励みにし、貧しくとも心は錦でした」。岡村さん自身も、”日の丸弁当“の白い部分が麦や芋で茶色い弁当を携えて7kmあまりの道を通い、卒業後は高等教育へ進学しました。
 塾の誕生から終幕までを見守り、今も敷地の一隅に佇(たたず)むのは1本のカタルパの木。同志社の創設者・新島襄(じょう)がアメリカから持ち帰った種子が徳富蘇峰の大江義塾に根付き、そこに学んだ平田一十が苗を譲り受けたという塾のシンボルツリーです。
 その青葉の陰に憩えば、小さく慎ましい学び舎にあふれていた往時の熱気が葉ずれの音に混じってよみがえるようです。


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※各情報は掲載時のものです。料金や内容が変わっている場合もあります。
  あれんじ気まま旅
Vol.79(2013.7.6)掲載
”合志(こうし)“の地名が誕生してから今年で1300年を迎える合志市。和銅6年(713)にそれまでの表記「皮石(かわし)」を改め正式に「合志」となったと伝わります。そんな悠久の時をうつす合志は、近年は熊本市近郊のニュータウンとしても発展著しいエリア。夏の光がくっきりと陰影を描く大地でさまざまな豊かさと出合いました。

文=松田有美 写真=森賢一(グラフ) 
表紙=緑が美しいカントリーパーク(合志市栄)



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