生活情報紙「あれんじ」公式サイト

トップ最新号とバックナンバー読者プレゼント
400年の歴史息づく 清正公さんの城下町 新町
『兵庫屋本店 渡辺醤油』で今もなお時を刻み続ける古時計


防衛のため清正がつくった 曲がり角の多い道と町割り

“一新まちづくりの会”監事を務める毛利秀士さん。新町を知りつくす生き字引的存在。町おこしのために奮闘する毎日だそうです
 
“高麗門跡碑”。新町から城外横手方面に通じる唯一の門。城内へ出入りする人を厳しく監視したそうです


江戸時代、新町と古町を隔てた新三丁目御門があったところには、明治に名工橋本勘五郎により明八橋が架けられました


新町の町並み。町屋の民家と商店が混在する通り(旧中職人町)
 
清爽園の一角にある里程元標跡碑


 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトンと町中をのどかに走る路面電車。沿線には文具店、八百屋、本屋、写真場と商店が軒を連ね、大通りから路地に入っても民家に交じって、饅頭屋、玩具店、豆店など専門店が点在。新町独特の町並みが広がります。
 そもそも新町は、加藤清正が築城とともに町づくりを計画しました。城郭内とみなされた新町は、防衛上から短冊型のクランクが多い町割りになっていて、見通しの利かない通りが縦横に走ります。清正はその区画に武士や商人、職人たちを移り住ませ、新町と名付けたと言われています。
 以来、多くの商店が立ち並び、熊本の商業の中心的役割を果たしてきました。昔は新桶屋町(しんおけやまち)、新魚屋町、新桧屋町(しんひものやまち)など、仕事や地形などを町名にして区画割りがなされていましたが、残念ながら今は新町としてひとくくりに。しかし市電停名にも残るように今も蔚山(うるさん)町、段山(だにやま)町とその呼び名は住人に親しまれ、町割りも当時のままです。真っすぐに路地を歩けば道に突き当たり右か左か、またその先を右へ左へ。あてもなく風まかせで道をたどって行けば、思いがけない光景が待ち受けてたりもするものです。
 「新町は明八橋の袂(たもと)あたりにあった新三丁目御門、横手方面に抜ける高麗門、新一丁目御門の3つの櫓門(やぐらもん)に囲まれていた町なんです。熊本城の正面入り口とされていた新一丁目御門は、現在の清爽園(せいそうえん)のあたりにありました。門前の広場には藩の政令を掲示する“高札場(こうさつば)”があったんです。ここが“札の辻”で、ここから豊前、豊後、薩摩、日向街道の里数が決められたんですよ。今でもバス停に一里木、二里木と残っているでしょ。ここから一里、二里ということになるのです」と案内をしてくれたのは、NPO法人一新まちづくりの会監事の毛利秀士さん(69)。現在は清爽園の一角に里程元標跡という碑だけが静かに立っています。


>> 2 殿様が愛した辛子れんこんと肥後象嵌 平成の新たな風にのって
※各情報は掲載時のものです。料金や内容が変わっている場合もあります。
  あれんじ気まま旅
Vol.46(2012.2.18)掲載
今から約400年前、加藤清正が築いた熊本城とともに、城下町として発展した、熊本市「新町」。今もぶらりと歩けば、どこか懐かしくて温かな風情を感じます。古き歴史を感じながら町に暮らす人たちに触れ合う、そんな町歩きをご紹介します。

文=北園佳代 写真=森賢一(グラフ) 
表紙=新町を走る熊本市電



400年の歴史息づく 清正公さんの城下町 新町
防衛のため清正がつくった 曲がり角の多い道と町割り
殿様が愛した辛子れんこんと肥後象嵌 平成の新たな風にのって
おいしい新町 人と人をつなぐ商売

くまにちコム


このページのトップに戻る↑



掲載の記事、写真の無断複製・転載を禁じます
Copyright Kumamoto Nichinichi Shimbun