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(4)益城町と台湾・大甲をつなぐ物語 伝説の教育者、志賀哲太郎の人生

(4)益城町と台湾・大甲をつなぐ物語 伝説の教育者、志賀哲太郎の人生

2018年2月3日
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台湾・大甲の教育に人生を捧げた志賀哲太郎。台湾に渡ってからは一度も帰国することなく、生涯独身を貫いたそうです。1924(大正13)年に大甲で撮影された肖像写真。写真提供=志賀哲太郎顕彰会

熊本地震で深い傷を負った益城町には、台湾の大甲という区(台中北部・現在の人口は約8万人)からも支援が届けられています。そこには、大甲と益城町をつなぐ物語がありました。

今から122年前の1896(明治29)年、台湾が日本の統治下にあった時代、益城町出身の志賀哲太郎という一人の人物が台湾へ渡りました。哲太郎は江戸末期の1865(慶応元)年、益城町田原(津森地区)に鍛冶職人の長男として誕生しました。実はその2年前に、同地区の杉堂で徳富蘇峰が生まれています。蘇峰の母・久子は、杉堂にあった実家に戻って蘇峰を産みました。

「蘇峰は裕福な家に生まれましたが、哲太郎の実家は貧しく、父親の甚三郎は西原村から移り住んだ鍛冶職人で、郷士・中村傳兵衞の屋敷内(浄信寺の近く、現在は個人宅)に家を建て暮らしていました。しかし、幼い頃から聡明だった哲太郎を傳兵衞が気に入り、勉学の手ほどきをします。22歳のときには現在の明治大学で法律を学んでいます」と話すのは「志賀哲太郎顕彰会」会長の宮本睦士さん(72)です。

志賀哲太郎顕彰会会長で益城町文化財保護委員を務める宮本睦士さん(右)と同会事務局の折田豊生さん

蘇峰はジャーナリストとして華々しい人生を送りますが、哲太郎も青年期に九州日日新聞社の記者として活躍した後、政治運動に奔走しました。しかし政治に嫌気がさした彼は、31歳のときに日本に割譲されたばかりの台湾に渡り、大甲という土地の小学校の代用教員になりました。

志賀哲太郎顕彰会事務局