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(1)“海の万里の長城” 堤防が語る干拓の歴史

(1)“海の万里の長城” 堤防が語る干拓の歴史

2018年1月13日
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明治後期の干拓で建設された総延長5.2kmの潮受け堤防群は、堤防と樋門が残る全国的にも貴重な干拓遺産。これを境に山側が明治の干拓でできた土地、海側は昭和後期の干拓地です

たわわに実るミカンに彩られた金峰山を抜け、熊本市中心部から車で走ること数十分。有明海を抱く広大な平野が見えてきます。碁盤の目のように整然と区画された土地は、干拓で生まれた横島町ならではの風景です。

江戸時代はこの辺りは海で、その中に「横島」という小さな島がありました。その周囲が干拓によって平野となり、町の名前の由来となったのです。現在は、その島は「横島山」と名前を変え、町を見下ろしています。

加藤清正は1586(天正14)年、肥後に入国すると新田開発により、人々の暮らしを豊かにしようと考えて、この横島を中心とし、1589(天正17)年から干拓事業に着手しました。

清正は菊池川の流路を変更、有明海の干潟を利用して塘(とも)と呼ばれる堤防を築き干拓を進めていきました。その後、干拓事業は細川藩へと引き継がれ、江戸・明治・大正・昭和と約350年にわたり続きました。

明治時代に行われた大規模な干拓事業の遺構が“海の万里の長城”とも呼ばれる堤防です。全長5.2kmにもおよび、明治時代の干拓施設が現存するのは全国的にも珍しく「旧玉名干拓施設」として国の重要文化財に指定されています。

「この堤防を境に、山側が明治の干拓でできた土地。海側は昭和後期の干拓地です」とと玉名市教育委員会の末永 崇さん(42)。末永さんの先祖も明治時代にこの町へ入植したそうです。

横島町に残る地名に、海を開拓した土地であることを示す「開」という文字が数多く残されています。「末広開(すえひろびらき)」「明丑開(めいちゅうびらき)」という地区にまたがるのが「六枚戸(ろくまいど)」と呼ばれる樋門です。

大きな3つの樋門が2組あることから、合わせて「六枚戸」と呼ばれています

堤防の壁面をよく見ると、上と下で石の積み方が違うのが分かります。地面に平行に石が積まれている「布積み」(上)は、大正から昭和にかけての高潮・高波で決壊し補修した部分です

この樋門は、干拓地にたまった水を干潮のときに門を開いて海に流し、満潮のときには閉じるという、干拓地の管理においての重要な役割を果たしてきました。2017年の日本遺産に認定された「米作り、二千年にわたる大地の記憶〜菊地川流域『今昔水稲物語』〜」にまつわるストーリーの構成資産のなかでも重要な要素の一つとされています。

「この堤防や水門は、私にとっては小さいころから見なれた風景の一つですが、この町の歴史を見守ってきたことを思うと、感慨深いものがあります。この価値を地域の方と協力して、広く伝えていきたいですね」と末永さんは話します。

玉名市教育委員会教育部文化課文化財係の末永 崇さん