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(1)“磁祖”と呼ばれた加藤民吉 技術習得へ愛知から天草へ

江戸時代、天領・天草で東向寺は重要な存在でした

(1)“磁祖”と呼ばれた加藤民吉 技術習得へ愛知から天草へ

2017年7月15日
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鮮やかなコバルトブルーの空と海を抱く本渡海水浴場。ここは日本で初めてトライアスロンが行われた場所です

本渡海水浴場(天草市本渡町)の白砂のビーチに立つと、太陽の照り返しに火照る頬を、海風がなでていきます。

春のころの優しい海も好きですが、開放感に満ちた夏の天草の海の大らかさはより魅力的です。鮮やかなコバルトブルーに染まる空と海を分ける水平線の色に、天草で育まれてきた陶磁器に描かれている藍色が重なります。

東向寺(同本町)を訪ねました。ここは天草・島原の乱(島原・天草一揆)の後、天領となった天草の初代代官・鈴木重成が徳川幕府に申し立てて、慶安元(1648)年に建立しました。

江戸時代、天領・天草で東向寺は重要な存在でした

おごそかな東向寺の本堂

本堂には見事な天井絵があります。絵の総数は190枚で、季節の花々や鳥類などが描かれており、見る人の心を魅了します。

東向寺の見事な天井絵。彩色も色あせず鮮やか

本堂横に陶器でつくられた記念碑があります。そこには、瀬戸焼(愛知県)の磁祖といわれる加藤民吉(1772~1824年)と東向寺の天中(てんちゅう)和尚が描かれています。

本堂前にある、陶器で作られた天中和尚と加藤民吉の記念碑

物語の舞台は江戸中期。瀬戸焼が衰退しようとしていた時のことです。民吉は、磁器の製法を学ぶために文化元(1804)年、同郷だった天中和尚を頼って瀬戸から天草へとやって来ました。

天中和尚が紹介したのが、高浜村(現・同市天草町)の庄屋で高浜焼7代目の上田宣珍(うえだ・よしうず)でした。宣珍は政治はもちろん、文化・芸術に秀でており、歴代の上田家当主の中でも卓越した人物だったそうです。

民吉は宣珍の下で製磁技術を学びますが、色絵の配合法までは教えてもらえず、いったん島を離れます。

それでも、あきらめきれず、再び来島した民吉の熱意に動かされた宣珍は、配合処方を書いて民吉に与えたと伝わっています。瀬戸に磁器の製法をもたらしたことで民吉は、「磁祖」と呼ばれるようになりました。

民吉の情熱もさることながら、本来ならば門外不出の製法を惜しみなく教授したという宣珍とは、どんな人物だったのか、がぜん興味が湧いてきました。そこで、宣珍のことが詳しくわかる上田資料館(同天草町)まで足を延ばしてみることにしました。

190枚に及ぶ天井絵は圧巻